キリスト教教育

キリスト教教育

 

活水女子大学では、授業期間中、火曜日と木曜日に「朝の礼拝」を行っており、心洗われるひと時をもって一日を始めることができます。15分間という短い時間ですが、オルガンに導かれて讃美歌を歌い、聖書のことばに触れ、メッセージを聴きます。メッセージは、宗教センターが年に5回発行している「Chapelmate(チャペルメイト)」に掲載されています。  このページでは「Chapelmate」の中から、朝の礼拝と「魂譲(たまゆず)り」の言葉をご紹介します。

 
  • 「魂譲(たまゆず)り」についてはこちら
 
 
2016 冬季号

−朝の礼拝から 1−

Appreciate Life

Psalms 118:24(詩編118編24節) 

 Every morning I watch the BBC news on television, and everyday the content of the programme is miserable. Some days the headlines are about terrorist incidents, on other days there are stories about children being murdered. Everyday there are videos of the dead, the injured and the starving. The picture of our world shown on the television news is one of suffering, misery and unhappiness. In the words of Thomas Hobbes the world we see on the TV news is “…the life of man, solitary, poor, nasty, brutish and short.”
 Even in countries like England or Japan many of us also seem to be unhappy. Everyday we can hear people complaining about their lives. They complain about being too fat or too thin, too old or too young. They complain about how busy and stressed they are, how they have problems with friends, school or jobs. They complain about not having enough money or not having a nice home. Nobody seems to be satisfied with what they are, what they do or what they have.
 However, compared with the people we can see on the news everyday our lives are great. We live in a relatively peaceful place, our friends and families are not being murdered, and we have plenty of food and drink. We also have homes, jobs, and schools to go to. In fact, we are very lucky to have the lives we do and live in the place we do. Most people in this world do not have such luck.
 The scripture above tells us to “rejoice and be glad” in the day that God made, and to me this means that we should not complain about the lives we have, nor should we feel guilty about the fact that we have so much and most people in the world have so little. Rather we should live our lives to the full. We should enjoy what we have and take pleasure in the life that God has been so kind to give us. We should appreciate each day that we live and make the most of it.
 Obviously, this does not mean we ignore or forget about those less fortunate than we are. Of course, we should make efforts to improve the lives of those who do not have the advantages we have. But, we should be happy with what we are, and be thankful with all that we have.

Andrew Gorringe(英語学科)

−朝の礼拝から 2−

「善意を捧げあう」ということ

ルカによる福音書 10章33節〜35節 

 「隣人愛の実践者としてサマリア人にスポットが当てられる。しかし、彼だけでは旅人は救えなかった。ろばのような従順に黙々と重い荷をになって歩いて行く者がいなければ、あの旅人は助からなかっただろう。」教職員修養会でこのお言葉に触れた時、私は初めて『善いサマリア人』の教えの中でろばも重要な役割を担っていたことに気づかせていただきました。大きな見える力と同様に、目立たないけれど大事な力が働きあって物事が意味を持つのだと、そして、善い行いは捧げあい繋がりあうことで強められるのだと改めて感じました。助けを必要とする人の声を聞きすぐさま駆け寄る勇気…、その勇気に力を貸そうとする善意…、その善意を見守り支えようとする温かさ…、それぞれがかけがえのない役割であって、それらが重なって繋がりあった集合体には大きな愛を実践する力が満ちるのだと思うと、私にできることは小さくとも、恐れず一歩を踏み出そうと勇気が湧きました。
 ちょうど同じ頃、遮断機が降りた踏切の中で倒れた男性が、たまたま居合わせた二人の方に救助されたという新聞記事を読みました。異変に気づいた女性が列車通過待ちの車から飛び出して男性のもとに行き、抱え起こすために周りに助けを求め、通りかかった男性がバイクを飛び降りて助けに入ったという内容でした。今にも列車が来るという恐怖はどんなだったでしょうか。でもこの方々は「無我夢中で恐怖心は顧みなかった」と言われたそうです。自分のことより助けを必要としている人に心と身体が向いていることに、そして、尊い善意が重なり繋がったからこそ命の光が守られたことに深く心を打たれました。
 相手を思って一歩を踏み出す時、神様は必ず力をくださり善意を捧げあうお恵みをも用意してくださることに信頼し、小さくとも意味のある歩みができることを願います。「人の痛みば感じらんばね。そして動かんばね。」と自分に声を掛けながら…。 

橋本 祐子(文学部・生涯学習センター事務室)

2015 クリスマス号

−朝の礼拝から 1−

「受け入れる恵み」

ルカによる福音書 2章1〜7節 

 5号館の2階で仕事に向かっておりますと、さまざまな楽器の音色でクリスマスの音楽が聞こえて参ります。もう、そんな時期になったのだなあ。とクリスマスを迎える心を与えてくれます。
 今朝拝読いたしました聖書の「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶にねかせた。宿屋には、彼らの泊まる場所が無かったからである。」ある教会で、この箇所のみをページェントにしてメッセージを受け取っていました。このページェントは、礼拝堂のいたるところの扉の向こう側に、人が待ち伏せます。そこに、身籠ったマリアとヨセフが、「宿をかしてもらえませんか」と訪ねてきますので、自他ともに認めるような断る理由を考えて断り、ドアを「バタン!!」と音を立てて閉めなければなりません。最後の扉の人は「どうぞお入りください」とお迎えするストーリーとなっています。いよいよ、ページェントの始まりです。身籠ったマリアとヨセフが扉をノックし「妻が産気づいています。お部屋を貸してもらえないでしょうか」と呼びかけます。扉を開いたのは、神学校に通う神学生でした。「貸したいけれど、明日試験なのですよ。」「バタン!!」と扉を閉めます。そして、次の扉へ夫婦は向かいます。次の扉は、カトリック教会のシスターでした。「今、修道院のゲストルームが工事中で、お貸しできません。」「バタン!!」礼拝堂中に、後味の悪いドアの音が響き渡ります。次は、主婦でした。「私は心身共に疲れ果てています。これ以上面倒なことは起こってほしくありません。」「バタン!!」そして、最後の扉は、10歳に満たない子どもの担当でした。子どもは、マリアとヨセフが訪ねて来ると「どうぞ、お入りください。そして扉の外の方もお入り下さい。皆さんで一緒に食事をいただきましょう」と招き入れます。ページェントは、参加者で食卓を囲んで終了しました。
 この教会で行われたページェントで、マリアとヨセフの訪問を断ってきた人々は、自らは雨露を凌げる家を持っていながら、「受け入れることはできない」と断ります。私たちは、恵まれているにも関わらず、面倒なことに対して、拒絶する理由を考えがちな面があると思います。「前例がないから」または、「これを引き受けてしまえば、今考えている計画が崩れてしまう」など。しかし、最後の扉の子どものように、受け入れれば、面倒なことも一緒に乗り越えられる仲間が与えられるのではないでしょうか。もうすぐ、イエス様を待ち望むアドヴェントの時です。私たちが恵まれていることに気づき、イエス様を受け入れる準備の時に相応しい時を持ちたいと思います。

大曲 喜美子(音楽学部事務室職員)

−朝の礼拝から 2−

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」

ローマの信徒への手紙 12章15〜18節 

 おはようございます。
 秋も本格的に入り寒さが厳しくなってきていますね。今日はそんな人肌恋しい時期に恋人ではなく、友情についてお話したいと思います。
 世の中には人それぞれ同様に友情のカタチも様々だと思います。幼馴染、中学や高校時代からの仲間、大学からの仲間など様々です。
 私は一生の友人たちと、幸いなことに、この活水女子大学のキャンパスで出会いました。不思議なことに、私の仲間たちは高校も同じだったのですが、最初は互いに会話もしたことがない人の集まりでした。なぜなら、お互いに似たような性格の人間ではないからです。
 一人はマイペース、もう一人はせっかち、もう一人は真面目人間 そしてムードメーカー。
 正直な話、こんな人とは絶対友達になれないと思っていた程でした。最初の互いの印象はこんな感じでした。
 大学入学当時はただ何となく出身高校が同じだから一緒になっていただけでした。きっといつでもサヨナラできるそんな関係だと私は思っていました。
 ですが同じ時間を過ごしていく中で様々なことをこの仲間と経験し、「心から人に優しくすること」を教えてくれた人たちだと今、思います。
 ちょうどいい距離を保ちながらゆらゆらと此処まで流れてきて、今、互いの幸せを心から願える最高の仲間たちだと思えます。皆さんの中には、もうそんな友人がいる方またはこれから出会う方といると思います。
 私が伝えたいことは毎日の学校生活を精一杯頑張る。最初は目の前のことに追われてしまうかもしれませんが、目標を持って生活していくと、自然と仲間と出会えると思います。
 互いに一生懸命目標を持って頑張ることにより、仲間の違う一面を知ることがきっとできると思います。
 友達の喜びを喜び、悲しみをともに悲しむ友人でありたいと思います。

野口 亜莉沙(英語学科4年)

2015 秋季号

−朝の礼拝から 1−

「サマリアの女」

ヨハネによる福音書4章7〜14節 

 ヨハネによる福音書第4章は折に触れて読まれ、活水の学生であれば何度も聞いている聖句でしょう。このお話をみなさんはもう知っていると思うでしょうが、しかし福音書の記者ヨハネによると「サマリアの女」の話は、ドラマチックで生々しくイエス様とサマリアの女の会話を描いています。
 神様はいつも弟子など人間の想像をはるかに超えるものとして描かれています。イエス様がシカルでサマリアの女に話しかけたことは、弟子の誰も想像できないことでした (聖書に書かれている通りユダヤ人はサマリア人と交際しないため)。
 女は正午ごろ水を汲みに来ました。それは人に会いたくないためでしょう。町の人とは会話を避けざるを得ない理由があったからです(後の部分に理由があります)。そして女は徹底して孤立する術を身につけていました。つまりこの町における自分の立場をよくわきまえているしたたかな女を表しています。イエス様は、その女にいきなり「水を飲ませてください」と頼むのです。女はなんと驚いたでしょう。ユダヤ人が突然、それもこの私に話しかけて来たと・・・。女はしかし無視はせず短く返答します。イエス様はさらに会話を続けていきます。彼女を刺激する言葉を投げかけては、その反応を引き出してゆく、ある意味では完璧なカウンセリングではないでしょうか。そして女はイエス様に「その水をください」と頼むのです。彼女自身それがなんであるか、よくわからなかったのでしょうが、彼女はそれを考えてみる気になったのです。
 神様は何を私たちに語りかけているのでしょうか。私たちは私たち自身で考え、つまりサマリアの女のように考え行動していないでしょうか。自分の願望、想いを神様の想いとしていないでしょうか。神様は私たちが想像もつかないお働きをされます。ですから、自分自身で考えることも大切ですが、考えた後は神様のなさるようにお任せしたいと思います。なぜならそれが間違いなく最善の道なのですから。

椎名 雄一郎(音楽学科)

−朝の礼拝から 2−

「心に静けさを」

テサロニケの信徒への手紙T 4章11節 

 大学生活も2年目に入りました。今年度からは普段の学校生活やサークル活動に加えてバイトを始め、忙しくも充実した日々を過ごすことができています。しかし、充実した生活を送ることができていても、家に帰れば授業の準備や課題をしたり、翌日のお弁当作りをしたりしているとあっという間に時間は過ぎてしまいます。気づけば静まる時がないくらいめまぐるしく毎日を過ごしていました。
 私は、島根県の全寮制の高校で過ごしました。そこは豊かな自然に囲まれていて、テレビも携帯電話もない現代社会から切り離されたような場所でした。聞こえてくるのは鳥や動物の鳴き声だけです。毎朝、毎夕聖書を読む時間もあり、人間関係が密接であったため自分のことを見つめる機会が多くありました。また、散歩をして夕日が海に沈んでいく様子を見たり、夜空に輝く満天の星を見たりしながら、一人静まって自分自身を振り返る時が私の心に安らぎが与えられ、自然に触れることで心が洗われる恵みの時でした。
 この高校時代とは全く違い、忙しさのあまり心に余裕のない自分に気づいた時、この聖句が目に留まりました。
 「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。」

テサロニケの信徒への手紙T 4章11節


 ここで言われているように、どのような時にも立ち止まって静まり自分自身を見つめる時をもって、学生生活に精一杯励み、生活すべてのことも誠実に行う、そのような歩みをしていきたいと願います。

花岡 真咲(子ども学科 2年)

2015 初夏号

−朝の礼拝から 1−

「憐みの神を求めて」

マルコによる福音書10章46〜52節 

  イエス様がエルサレムへと向かう旅の途中、エリコという町を通り過ぎます。当時エリコでは過越の祭りが行われ、多くの人で賑わっていました。イエスが町にやってくると聞きつけると、人々は街道に出て、一目見ようと集まってきます。エリコには多くのユダヤ人が住んでいて、当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありました。人々はイエス様が自分たちをローマの支配から解放してくれるに違いない、偉大なイスラエルの王国を復興してくださるに違いないと願ったのです。そしてイエスが新しい王として君臨した時、自分たちも良い地位を獲得したいとの下心も持ち合わせていたのでしょう。言い換えると、彼らにとってイエス様とは御利益をもたらしてくれる神様のような存在でした。
 そしてその雑踏の中に一人の男が物乞いをしていました。彼の名はパルテマイと言い、目が見えません。イエスが近づいてくると、パルテマイは「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と突然叫びだします。多くの人々が彼を黙らせようとします。将来、王になる人には花道を用意してあげるべきで、パルテマイのような盲目の物乞いは目の上のたんこぶのような存在だったのでしょう。しかしパルテマイは叫ぶのをやめず、イエス様の目に留まります。イエス様はパルテマイを自分のところに呼ぶと、彼の願いを叶えてあげるのでした。
 パルテマイはイエスのことを「ダビデの子」と呼びました。これはイエスの誕生を正確に表しているとは言えません。しかしイエスはそんなこと気にも留めず、多くの群集の中から彼を選び取ったのでした。パルテマイが求めていたのは、憐みの神でした。この点において、パルテマイは他の群集と違っていました。そして強い信仰心も持ち合わせていました。実際、彼は目が見えるようになった後もイエスに従ってゆきます。
 我々は日常生活において、「正しいのか」や「ふさわしいか」ばかりに気を取られがちになってしまいがちです。イエス様と共に生きるとはどういうことか、パルテマイの姿から多くのことを学んでゆきたいと思います。

狩野 暁洋(英語学科)

−朝の礼拝から 2−

「喜ぶこと、祈ること、感謝すること」

テサロニケの信徒への手紙T5章16〜18節 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」


 おはようございます。私は、音楽学部3年の中山ニッキーです。ピアノを専攻しています。今日は春休みに行われた、音楽学部の海外研修に参加した時の出来事についてお話ししようと思います。
 音楽学部の海外研修では、ドイツとオーストリアに全部で10日間行きました。10日間過ごした中の3日間は、ドイツのミュールドルフという小さくて可愛らしい建物が並ぶ町にある音楽学校で、レッスンを受けました。ドイツ人の先生にレッスンをしていただきました。レッスンでは、うまれてはじめて、ペラペラと話すドイツ語を聞きました。毎日のほとんど、日本語しかつかわない私には、まだまだ語学力がない、せめて最低限の英会話は、日本に帰ってから勉強しようと思いました。
 今回の海外研修で、私はある目標を持っていました。それは、心も頭も熱くなりすぎず、落ちついて、自分をコントロールして、自分らしく、楽しく、人前で演奏することでした。私は、人前に立つと、ものすごく緊張してしまいます。今までの定期試験でも、緊張に負けてきました。しかし、「今回の海外研修こそは」と思い、この目標を根強く持ちました。レッスン最終日に発表会がありました。私は、演奏する順番が回ってくるまで、一人一人の演奏を楽しく聴いていても、頭の中のどこかでは、この目標を何回も唱えたり、神様に祈ったり、先生の顔が出てきたりしていました。
 いよいよ順番が回ってきました。本当に下手くそな演奏だったと今でも思いますが、大学生になってはじめて緊張に勝つことができました。演奏を終えたときに、自分の中で、目標を少しでも達成することができたことに喜びを感じました。その喜びを感じることができたのは、日々お世話になっている先生や、ドイツの先生、海外研修に参加させてくれた両親、そしてその喜びに導いてくれた神様のおかげです。そこで、今日の聖書の箇所、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」を思い出してみました。
 今回の海外研修で、たくさん学ぶことができました。そして、これから過ごす日々、この聖書のことばを大事にしようと思いました。喜ぶこと、祈ること、感謝すること、この3つを大事にして、神様が望まれる人に近づくよう、日々を過ごしていきたいです。

中山 ニッキー(音楽学部 3年)

 

−2014年度卒業式より−

魂譲り(譲り手)

 今日、私たちは活水女子大学での学びを終え、それぞれに与えられた道を歩もうとしています。これまでの大学生活を振り返ると喜びや楽しみだけでなく、悩みや葛藤もありました。それら一つ一つは私たちの人生の糧となり、大切な思い出です。
 活水学院は今から136年前、愛と奉仕を建学の精神として掲げ、この学院に連なるすべての者がいつまでも渇くことのない活ける水を豊かに汲み取り、永遠の命を得るようにとの祈りを込め、アメリカのメソジスト派宣教師、エリザベス・ラッセル先生が創立されました。
 この手桶にはその想いが満ち溢れており、ここに結ばれてきたリボンの一本一本には多くの先輩方の祈りが込められております。
 今年は新たに「真理を見出して歩んでほしい」との願いを白のリボンに。「思いやりのある愛の香りを放つ女性になってほしい」という願いをラベンダー色のリボンに託し、お譲りいたします。
 在校生の皆様、どうかこのリボンに込められた思いを心に留め、「活ける水を汲むもの」となってください。皆様の歩みの支えとなるように、詩編37編23節の御言葉、「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。」を贈らせていただきます。
 最後に、この日まで私たちを支えてくださった家族、見守ってくださった先生方や職員の皆様、ともに学んできた卒業生および在学生の皆様、そしていつも共にいて導いてくださる神様に感謝するとともに、活水学院のさらなるご発展を心よりお祈りいたします。

石原 麻衣(音楽学部 第18回音楽学科卒業生)

 

 

魂譲り(受け手)

 

 卒業生の皆様、ご卒業おめでとうございます。
 ただいま、これまで多くの先輩方より受け継がれてまいりましたこの手桶をお譲り頂きました。
 今年は新たに、「真理を見出して歩んでほしい」との願いを白のリボンに、「思いやりのある愛の香りを放つ女性になって欲しい」という願いをラベンダー色のリボンに託し、結び加えて頂きました。
 わたくしたち在学生は、この2本のリボンに込められた思いを心に深く刻み、「永遠に渇くことのない、活ける水」を汲み続ける活水の学生として、歩んで参りたいと思います。
 卒業生の皆様は、この学び舎で、神さまの大きな愛の光を受け、先生方や友人、ご家族の祈りと支えに励まされ、日々、その土壌を豊かに耕して来られました。そして本日、ひとつとして同じもののない美しい花を咲かせておられます。これからはそれぞれの道を歩んでいかれますが、喜びや感謝のときばかりではなく、困難を覚えるときや、忍耐を試されるときもあると思います。しかし、どのような時にも、神さまはいつも共にいて、最善の道を備えてくださいますから、どうぞ主に信頼し、愛の人として輝く未来へと歩みだしてください。
 最後に、今後の新たな歩みのうえに、神さまの豊かな祝福と御護りがありますよう、心よりお祈り申し上げます。

花岡 真咲(健康生活学部 子ども学科1年)

 
 
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