キリスト教教育

キリスト教教育

 

活水女子大学では、授業期間中、火曜日と木曜日に「朝の礼拝」をおこなっており、心洗われるひと時をもって一日を始めることができます。15分間という短い時間ですが、オルガンに導かれて讃美歌を歌い、聖書のことばに触れ、メッセージを聴きます。メッセージは、宗教センターが年に5回発行している「Chapelmate(チャペルメイト)」に掲載されています。  このページでは「Chapelmate」の中から、朝の礼拝と「魂譲(たまゆず)り」の言葉をご紹介します。

 
  • 「魂譲(たまゆず)り」についてはこちら
 
 
2012 冬季号

-朝の礼拝から1 -

「人を裁くな。あなたが裁かれないようにするためである」

マタイによる福音書7章1〜2節

 このような教えがあること自体、私たちがとかく人を裁きがちだということでもあります。現実の社会では、互いに裁きあって、足を引っ張り合うようなことが起こっています。人を裁くとそれは自分にもはねかえってきて自分が裁かれてしまうのです。
 では、なぜ、私たちはそのように人を裁くのでしょうか。その理由のひとつには、相手を裁いて自分より低い位置におき、そのことで自分の位置を高くしたいと思うからではないかと思います。私たちは、できたら自分を高く評価してもらいたいという欲求をもっています。競争社会のなかでは、つねに他者との比較において自分の位置を確かめなければならないので、他者よりすぐれていることは、心地よい快感をもたらすのです。自分よりすぐれている人が近くにいるとコンプレックスを感じ、そのことは心に痛みをともなうので、自分より低い人を探し出して、あるいは低いというレッテルを貼って、その人を裁き、自尊心を維持しようとするのです。人はみな、何らかの自尊心なしには生きていけないからです。
 けれども、コンプレックスは人を成長させるエネルギーにもなります。自分の弱い部分を他の強い部分で補おうとするからです。自分の強い部分を見つめることで、自分を肯定的にとらえることができ、それが自信につながり、成長への意欲につながるのです。
 人を裁くことから解放されるためにはどうしたらよいのでしょうか。それは、しっかりとした自分を確立し、自分の生き方を定めることです。理想とする自分の姿をはっきり描くことができるなら、すすむべき方向がみえて、人との比較で自分の位置を確かめようとしたり、そのことで一喜一憂したりすることもなくなるかもしれません。人はつねに揺らぎのなかで生きていますが、その揺らぎを少しづつ小さくしていくことが自分を確かな存在にしていくことであり、そのためには、神の前に、自分の姿を問う姿勢が求められているのです。

徳永 幸子(子ども学科)

 

-朝の礼拝から2 -

「世の光」

ヨハネによる福音書8章12節

 12月に入り今年も残りわずかとなりました。皆さんにとって、今年はどのような年だったでしょうか。今日は私の今年一年の証をしたいと思います。
 私が、今年最も神様に守られたと思った出来事は、東日本大震災でした。私は、その日茨城県の実家で地震を経験しました。その揺れは今までにないくらい大きく、立っているのも大変なくらいでした。地震の後も余震、大津波警報、停電、断水など、さまざまな恐怖、不安の中にいました。家の中で電気がつかないので、ろうそくに明かりを灯して二日間生活しました。そのろうそくの明かりを見ていたときに、今日読んだ、「わたしは世の光である。わたしに従う者は闇の中を歩かず、命の光を持つ。」という御言葉を思い出しました。私はこの御言葉に励まされました。さまざまな困難、不安の暗闇のなかにあっても、私の心を照らすイエス様の光がありました。この震災を通して改めて、この御言葉の意味を考えさせられた気がします。
 停電がなおった時にテレビを見ると、私の地域と比べものにならないほどの東北の津波の被害を見ました。私は守られたからこそできることがあると思い、夏休みにクリスチャンのボランティア団体でボランティア活動をしました。私にできることは、本当に小さい事でしたが、被災地の方々に喜んでもらえたのでよかったです。まだまだ被災地は大変な状況なのでこれからも祈り続けなければいけないと私は思っています。
 今年もいろいろなことがありましたが、こうしてクリスマスを待ち望めることを感謝します。そしてクリスマスにイエス様が世の光としてこの地に来てくださったことを感謝します。
※2011年12月13日 朝の礼拝より

石原 麻衣(音楽学科1年)

 
2011クリスマス号

-朝の礼拝から1 -

「ヨセフ物語」

創世記 37章12〜28節

 皆さんは、旧約聖書の創世記を読んだことはあるでしょうか。私は、高校2年生の夏休み、学校の夏休みの宿題で初めて読みました。それは聖書であることを忘れるくらい、楽しい物語だと思った記憶があります。今日は創世記のヨセフ物語のはじめを読みました。
 ヨセフは、父が溺愛したため、兄たちに恨まれてしまいます。そして、兄たちの計略により危うく殺されそうになり、エジプトに奴隷として売られてしまう話が今日の箇所です。この部分を読む限り、ヨセフはなんて可哀想な人生を送るのだろうと、思ってしまいます。ヨセフは、エジプトに奴隷として売られた後も様々な苦難に遭遇しますが、最後は、エジプトの高官になり、飢饉に陥った父、兄たちをも助けることになるのです。ヨセフ自身、このような人生を送ると思っていたでしょうか。
 この物語を読むたびに私は思うのです。私自身、いつも自分の力でこれをしよう、あれをしようと思い、上手くいくこともあれば、上手くいかないことも多々あります。そして一喜一憂する訳ですが、ヨセフ物語を通して、神様は私達に語っているのだと思います。ヨセフは、どのようなひどい目にあっても神様を恨まず、反対に人生の中で上手くいっている時も、自分自身の力と思わず、神様に感謝しているのです。私達は、自分の人生を自分自身で何とかしようと思います。もちろん自分自身が、目標に向かって精一杯頑張ることは大切だと思います。しかし、頑張ろうと思うモチベーションも、神様が私達に与えてくださっているのだと思います。信じられないくらい、何をやっても上手くいかないことも、神様は私達に与えてくださっているのです。しかし、神様は、私達に乗り越えられない試練は与えません。私のまだ長くはない(?)人生においても、そうです。
 神様、日々精一杯生きながら神様を信頼して、一日一日を送ることができますように見守ってください。

椎名 雄一郎(音楽学科)

 

-朝の礼拝から2 -

「神の愛」

ローマの信徒への手紙 8章31〜39節

 イエス様は毎週チャペル・アワーで唱える「主の祈り」を通して、神様に願いをささげる意味を教えてくださいました。その祈りの最後は「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」です。これは「すべての栄光が神様のものです」という願いであり、神様の前で人間は祈ることが許されていることの告白だと思います。すべての力が神様にありますので、神様に対して全ての信頼を寄せるしかありません。このことは私たちが安らかな思いをもって自分を神様に委ねるように働き、日々、楽しく過ごすことができると思います。主の祈りは神様への信頼を教えています。
 先週、「イエス・キリスト」という主題で全学修養会が行われました。イエス・キリストは神の独り子ですが、私たちの代わりに苦しみを受けられた方です。それが私たちをかけがいのない存在として愛しておられる神様の意志です。主の祈りの呼びかけは「天にましますわれらの父」です。私たちの父である神様がこの世界を愛しています。その愛の豊かさをパウロはローマの信徒への手紙8章31節以下で力強く語っています。
 その愛は、「神様が私たちの味方であるとのこと、また、私たちが主イエス・キリストのとりなしの祈りの対象であること」です。親のおかげで私たちは何の心配もなく、学業に臨んでいます。私たちの生活を親が支えているから、今の私たちがいることを改めて感じます。それと同じように、力強いお方の神様が私たちの背後で、日々の歩みと取り組みを助けてくださいます。これが神様の愛だと思います。神様の愛は人間に勇気を与えます。神様の愛は内なる人間を強め、恐れることなく、チャレンジするように働きます。
 私たちはこの神の愛に私たち自身を委ね、その愛による導きを求めていきたいと思います。神様に近づきつつ、謙虚に歩みたいと思います。必要なものが与えられることを祈っていきたいと思います。そして、神様の深い愛に応えながら、周囲を潤す活ける水として、与えられている学業に精一杯取り組んでいきたいと思います。

中野 比呂美(演奏学科4年)

 
2011 秋季号

-朝の礼拝から1 -

「平和の道具にしてください」

ヨハネによる福音書3章16節

 こういう話を聞いたことがあります。
 ある皇帝が恐ろしい実験を思いついたのです。赤ちゃんは言葉を聞かされなかったら、何語を話し始めるだろうか。ギリシャ語かドイツ語か英語か人間の根源語を知りたいと。それで多くの赤ちゃんを集めて、世話をさせることにした。その際ミルクは十分に与えなければならないが、絶対に話しかけてはいけないと命令したのです。それで1年、1年半と過ぎてゆき、赤ちゃんは何語を話し始めたのか。人類共通の言葉があったのか。何語も話し始めることはなかった。むしろ2年ぐらいの間に赤ちゃんはみんな死んでしまったということです。人はミルク・食べ物がないと生きていけない。しかしそれだけでは生きていけない。言葉をかけられ、微笑みかけられないと。心の栄養が必要なのです。人は愛のある言葉で生かされ、人と人の思いやりが必要なのです。
 しかし、やっかいなもので愛のある言葉ならいいですが、言葉で傷ついたり、言葉が足りなくて誤解をしたり、人と人とが互いに分かり合い理解しあうというのは難しいもので、親子、兄弟、親友、夫婦の間においても誤解したり、伝わらないこともあります。人間関係は難しいものです。
 私も鬱々と悩んでいるときに、聖歌隊がよく歌う皆さんもよくご存知と思いますが、「私を平和の道具にしてください」という曲があります。この曲の一節が心に響いてきました。
「憎しみあるところに愛を 悲しみのあるところに喜びを
あやまちのあるところに優しい心の赦しを 絶望あるところに希望を
暗闇に光を 主よ、私を平和の道具にしてください」と歌います。
 改めて「平和の道具」とはなんだろうと思い、この聖書の箇所が思いつきました。
 毎日の生活の中で小さな争いの中で、いざこざの中で小さな平和の道具になりたいものだと、思いました。
 人間が生きていくには独りでは生きていけないが、人間どおしお互いを生かしながら生きてゆくことは難しいことだと思います。作家の三浦綾子さんは人生という言葉は人を生かすと書くと言われましたが、自分を生かし、周りの人を生かすことだそうです。私たちの平和の使者として来られたイエス・キリスト。十字架にかかり、私たちを愛されたキリストにならい、私を平和の道具にしてくださいと祈りたいと思います。

西村 実千代(宗教センター)

 

-朝の礼拝から2 -

「イエス様が導く人生」

フィリピの信徒への手紙4章6〜7節

このようにお話のできる時が与えられ、感謝しています。
留学生活を通して感じたことを、皆さんと分かち合いたいと思います。
 来日の際、わたしは友人と一緒にきましたので、そんなに寂しくありませんでした。しかし、家族と離れるのがはじめての経験でしたので、一人で暮らすことに寂しさと不安を覚えました。このように不安をもって始めた留学生活は、意志の弱い自分との闘いの連続であって、寂しさの中で神様への祈りはわたしの慰めの泉でした。そして、留学生活を通して出会った兄弟姉妹、また日本での経験は生きることへの喜びでもありました。
 意志の弱いわたしは、小さなことに関しても悩み、傷つけられてしまうのですが、そのとき神様への祈りは悩みから解き放してくれた恵みであって、その恵みに導かれ、ときには自分を振り返ることができました。信仰はわたしを感謝の道へと導いたのです。
 今、わたしは、イエス様をいまだに知らない人々が、できれば心からイエス様を救い主として受け入れることを願い、祈っています。このように、わたしは留学生活を通して少しずつではありますが、成長していく自分に出会っています。日常生活の中で、たとえ小さなことでも感謝ができるようになりました。まさに、留学は神様のわたしに対する昔からの計画だと言わざるをえません。
 わたしはその存在感すらみえない、そしてすぐ人の記憶から忘れがちな者ですが、神様はわたしのことを覚えておられます。ここまでわたしが務めを果たすことができるのは、神様の知恵によるのだと思います。それは神様がわたしたちのそばにともにいることの証だと思います。これからの聖書のことばに立ち帰り、祈りをもって、留学生活を送りたいと思います。
 心から神様を讃美しながら、今日も歩んで参りたいと思います。

許 藝振(現代日本文化学科4年)

 
2011 初夏号

-朝の礼拝から1 -

「聖書の言葉」

詩編23篇

 今から16年前、阪神の震災で神戸の実家が被災し、日常生活が困難になった父を迎えに地震直後の神戸の町に行きました。家は崩れ、ビルは倒壊し、道路は至る所で寸断し、陥没し、こんな凄まじいことはない、とこの日を境に今までと同じようにものを見ることができなくなってしまいました。人生観が大きく変わったということですが、もうこれ以上のことはないと思っていたところに、この3月11日、東日本を襲った地震と大津波、今も時々刻々状況が変わる原発事故という想像を超えた出来事が起こり、ただ呆然とし、言葉を失ってしまっています。こういう時に「頑張ろう!」ということがよく言われますが、このような想像を絶する悲惨な出来事に遭遇した時、どんな言葉が心に響くのでしょうか。どんな言葉が人に必要なのでしょうか。
 『だいじょうぶ だいじょうぶ』(いとうひろし作・絵)という絵本があります。幼い男の子が大きくなるにつれて世界は豊かに広がるのですが、新しい発見や楽しい出会いが増えれば増えるだけ、困ったことや怖いことにも出会うようになります。そのような時、この男の子のお祖父ちゃんは、男の子の手をにぎって「だいじょうぶ だいじょうぶ」とおまじないのように呟きます。お祖父ちゃんのこの言葉に後押しされながら、男の子は、困ったこと、怖いことや不安も、大丈夫、心配しないでいいんだ、と大きくなっていき、そして今度は男の子が「おじいちゃんの てを にぎり、なんどでも なんどでも くりかえします。だいじょうぶ だいじょうぶ。だいじょうぶだよ おじいちゃん」という絵本です。
 この絵本にある「だいじょうぶ だいじょうぶ」という言葉、さりげなく生きていく勇気を与え、そっと前に押し出してくれる、このような私たちにとって心の糧になるような、生きていく力を与えてくれるような言葉が一杯詰まっているのが聖書です。
 聖書の御言葉が皆さんを力づけてくれますように、御言葉によって皆さんが生かされていくように心から願っております。

上出惠子(子ども学科)

 

-朝の礼拝から2 -

「隣人愛」

マルコによる福音書12章33節

 聖書の箇所に、4人の友達が病気の人を運ぶ話があります。その4人の友達は、病気の人をイエス様にみてもらおうとしましたが、多くの群集が、イエス様がいる建物に話しを聴こうと詰め掛けていたので、イエス様に近づけませんでした。そこで、4人は屋根を剥がし、イエス様の前に病気の人を降ろしました。ここで、気付いたことが、屋根を剥がして、病気の人を降ろすということは非常識なことであるということです。この4人の人たちは、大勢の目をはばからず、病気の人のためにその人を屋根から吊り下ろしました。この時代に起こった出来事だと思うと、どれ程驚くようなことか実感しにくいと思いますが、今この建物の屋根が剥がされて、病気の人が吊るされてきたら驚きますし、よその建物を勝手に壊す非常識さに驚くと思います。当時もおそらく、その位の驚きだったと思います。私はこの箇所から、常識にとらわれずに困った人がいたら助けなさいというメッセージをくみ取れたように思います。
 ここで私は、奥田知志牧師の話を思い出します。奥田先生は北九州でホームレス支援の活動している牧師で、北九州ホームレス支援機構は活水が毎年クリスマスに献金をしている機関の一つです。先生は、「自分の利益のために生きるのではなく、他人のために生きる生き方、『アホ』と言われてもよいからそのような生き方をしよう。イエス・キリストもそのようになさった」とお話して下さいました。
 他人のために行動することは、時に非常識なことであったりするかもしれません。それに、とても難しいように思えます。これは私の課題でもありますが、まずは人のために生きるとまでいかなくても少しでも他人のことを思い、周囲にできる限り何かができたらと、アンテナを張って過ごしたいと改めて思います。微力ですが、この心掛けの実行で、暖かな心の輪が広がり、被災地まで届き、より過ごしやすい社会になれたらと願います。

藤原かおり(子ども学科4年)

 
2010年度卒業式より

魂譲り(譲り手)

 今日、卒業という大きな節目を迎えられたことを大変嬉しく思います。
 活水女子大学での4年に渡る学生生活を振り返りますと、喜びや楽しい思い出だけではなく、困難な出来事も脳裏に浮かびます。そのような時に手を差し伸べてくださったのは教職員の皆様をはじめ、友人たちや家族、そして、常に私たちと共にいてくださる神様でした。その大きな愛に支えられ、癒されながら一歩一歩前を向いて歩むことができたことは、私にとってかけがえのない宝となりました。
  私たちは、思い出に満ちたこの学び舎を巣立ち、それぞれが新しい世界に旅立ちますが、この活水女子大学で与えられた導きを信じて、歩んで参りたいと思います。
 今日、私たち卒業生は、長年受け継がれてまいりましたこの手桶を、在学生の皆様へお譲りいたします。この手桶には、「活ける水を汲む者となるように」との、学院創設者エリザベス・ラッセル先生の願いが込められております。
 今回、私は卒業生を代表して、白と桃色のリボンを新たに結び加えました。白のリボンには、支えてくれる仲間やこれから訪れる新しい出来事に対する「真摯さ」を。桃色のリボンには、どのような時にも愛や希望を忘れずに生きていけるよう、「暖かな心」という意味を託しました。在校生の皆様、どうかこのリボンに込められた思いを心に留め、「活ける水を汲む者」となってください。
 最後に、新約聖書ローマの信徒への手紙12章9−10節の言葉を贈らせていただきます。 「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」。
 様々な立場から支えてくださいました教職員の皆さま、卒業生及び在学生の皆さま。いつも暖かい目で見守り、励ましてくださった家族や地域の皆さま。そして活水学院の上に、神様の祝福と導きが限りなくありますことを心よりお祈りいたします。

近藤 杏奈(音楽学部第14回応用音楽学科卒業生)

魂譲り(受け手)

 卒業生の皆様、ご卒業おめでとうございます。只今、これまで多くの先輩方より受け継がれてまいりましたこの手桶を、皆様からお譲り頂きました。
 今年は新たに、「真摯さ」との願いを白のリボンに、「暖かな心」との願いを桃色のリボンに託し、結び加えて頂きました。
 私たち在学生は、この2本のリボンに込められた思いを心に深く刻み、「永遠に渇くことのない、活ける水」を汲み続ける活水の学生として、歩んでまいりたいと思います。
  今日、晴れの日を迎えられた皆様は、今、様々な思いを抱いておられるでしょう。皆様方は、この学び舎で出会った人々の支えや励まし、また、神様の見守りと愛の中で得た様々な体験や学びを通して、人間としても女性としても大きく成長されたことと思います。
 卒業後は、それぞれの道を歩んでいかれますが、喜びや感謝できる時ばかりではなく、困難や忍耐を試される時もあると思います。しかし、どのような時にも神様が共にいて最善の道を備えてくださいますから、信じること、輝かしい明日への希望を持つこと、隣人を愛することを忘れずに歩み続けてください。

 最後に、今日から始まる新たな歩みの上に、神様の豊かな祝福がありますよう、心よりお祈り申し上げます。

藤原 かおり(健康生活学部子ども学科3年)

 
 
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