キリスト教教育

キリスト教教育

 

活水女子大学では、授業期間中、火曜日と木曜日に「朝の礼拝」をおこなっており、心洗われるひと時をもって一日を始めることができます。15分間という短い時間ですが、オルガンに導かれて讃美歌を歌い、聖書のことばに触れ、メッセージを聴きます。メッセージは、宗教センターが年に5回発行している「Chapelmate(チャペルメイト)」に掲載されています。  このページでは「Chapelmate」の中から、朝の礼拝と「魂譲(たまゆず)り」の言葉をご紹介します。

 
  • 「魂譲(たまゆず)り」についてはこちら
 
 
2011 冬季号

-朝の礼拝から1 -

「新たなる“勇気づけ”」

詩編33篇1〜4節

 今回は放課後児童サポートの活動(「オープンクラス」と称)を紹介します。「放課後児童(または学童保育)」とは、共稼ぎの家庭の児童(主に小学校1年から4年生まで)のことで、「オープンクラス」は「活水地域コミュニテイ」(2006年4月に内閣府管轄「大学地域まちづくりネットワーク」認定)の活動の一環として行なっています。活動の内容は毎週土曜日の午前中に、勉強(60分)と遊び(90分)を小学生と一緒に行うというもので、大学生が自分たちで計画し、責任感や思いやり、地域社会とのつながり、さらには自己発見をテーマとし、主体的に集まっています。
 当初は日本人の大学生だけで始めましたが、現在では留学生も多く集まります。現在、5人から10人ほどの留学生(主に中国や韓国の留学生)がこの活動に加わっています。慣れない異国での日本語学習の合間に、自分たちの意思で小学生との交わりを尊重し、多くのことを学ぼうとしています。この拡がりは予想もしなかったことでとても驚いています。
 それぞれの母国での教育が根底にあると思われますが、わたしたちの活動にとって勇気と励ましを与えてくれます。日本と中国・韓国などの大学生が協力して「オープンクラス」の活動を支えていることは、大学教育の未来を照らしてくれると考えています。
  なお、「オープンクラス」に関心のある方は、野中研究室(本館4階)まで訪問してください。学科や専門は問いませんので、自由に訪れてみてください。

野中 和孝(現代日本文化学科)

-朝の礼拝から2 -

「友情」

詩編23篇2〜6節

 太宰治の「走れメロス」という話をご存知ですか?
 この話は、捕らわれたメロスが、妹の結婚式を挙げるために、処刑の前に三日間の自由が欲しいと王に申し出るが、とりあってもらえず、そこで人質として親友のセリヌンティウスを差し出します。セリヌンティウスは、メロスが帰らなければ身代わりに殺されるという立場を突然知らされますが、無言でうなずき、身代わりを引き受けるのです。捕らわれ、待つ身となった友セリヌンティウス。一方、メロスは自由の身となり、城をあとにします。大急ぎで妹の結婚式を終え、再び、友が待つ城をめざします。日が沈むまでに戻らなければなりませんが、行く手を様々な障害が阻みます。そして最大の敵、自分自身との闘い。力尽き、自分に負けそうになりかけながらも、力をふりしぼり、セリヌンティウスが待つ城をめざして走りつづけます。日没直前、間一髪、間に合います。再会を果たしたメロスは、途中、一度だけ友の信頼を裏切りかけたことを告白し、セリヌンティウスも、一度だけメロスを疑ったことを告白し、二人は互いの友情と信頼をさらに深めるといった話です。私はこの小説を読んだ当初、メロスを身勝手だと感じ、こんな事はありえないとシニカルな目線を持ちつつ、セリヌンティウスのもつ愛情には密かに感動していました。そして 最近、私は友人に自分のコンプレックスや劣等感などネガティブな感情が詰まった言葉をそのままぶつけてしまいました。友人は黙って聞き、最後に「それでも私はあなたが大好きよ」と何の非難もなく私を受け入れてくれました。その瞬間心の重荷が取れ、どんなにいやな姿を見せても私を認め愛してくれる存在がいることに気づき、心が救われる体験をしました。そして今、この友人の愛情、友情に応えるためにも、自分自身を大切にし、友人を支えられる人間として成長したいと思っています。
 みなさんにとって友人とはどんな存在ですか?友情とは何ですか?
 私にとっては生きていく上で欠くことのできない存在であり、愛そのものです。
 人を愛し信用するということは、とても勇気がいることですが、それによって大きな力、喜び、豊かさを得ることができるのではないでしょうか?
 裏切りや失望、また傷つくことはとても怖いです。けれども、たった一人でもいい、自分が愛し、信頼したいと思う人、愛し、信用してくれる人と出会うことは人生を希望と喜びに輝かさせてくれると思います。いい出会いがあることを願っています。

斉藤 圭子(看護学科2年)

 
2010クリスマス号

-朝の礼拝から1 -

「施」

マタイによる福音書 6章3〜4節

 人間には野性の心と合理的に飼いならされた心があるようです。ここでは野性の心について触れます。その心は人間の絆をつくり、埋葬に表れると聞いたことがあります。
 そのことから、私は小学校国語の教科書に掲載されています「野の花をそなえた五万年前の人々」(たかしよいち)を覚えます。よって以下にその内容をまとめます。
 「1951年からの発掘調査団が、白っぽいかけらのようなものを見つけ、それが人骨であることを確かめました。発掘の際出てきた骨は、3-4歳くらいの幼児のもので、その骨は頭の部分などはよく残っているのに、首から下は粉々に砕けていました。おそらく上から何かに押しつぶされたのではないだろうか、と考えられました。幼児の骨が発見された後すぐ近くで年老いた男性の人骨が発見され調べたところ、この人は年齢が40歳くらいで生まれつき右腕と左目がなく、しかも前歯はすり減っていたということです。5万年も大昔40歳と言えば今の80から90歳以上の大長老にあたるようです。なぜ生活条件の厳しいこの当時、それほど長生きできたのでしょうか。彼は狩りにいくことはできなかったはず。だから仲間たちが狩りに出かけている間、洞窟の留守番役をしたり、炉の火をたやさないようにしたり、仲間の毛皮の服のつくろいや、石や木や骨でつくった道具の修理などもしたのでしょう。周りのネアンデルタール人からも大事な仲間として認められ、大長老になるくらいまで長生きできたのでした。長老をはじめ子ども達の死は、洞窟の落盤事故によるもので洞窟の天井がくずれ、その下敷きになったため骨が砕けてしまったようです。狩りから帰ってきた人たちはどんなにか、なげき悲しんだことでしょう。彼らは死者を洞窟に葬り、狩りで捕った野性のやぎを供えたのです。なによりもすばらしいのは、彼らが死者に野の花を供えた事実がわかったことです。(土の中には、たくさんの植物の花粉が発見されたのです。)洞窟の人々は死者をいたみ、死者の周りやその上に、うず高く野の花を摘んで捧げたのです。」
 つまり、他者を思い、相手を尊敬して捧げる無償の贈りものが、施しであると考えます。

前田 志津子(子ども学科)

-朝の礼拝から2 -

「子ども学科で4年間過ごして」

イザヤ書 43章2節

 この4年間、本当に様々なことがありました。
 憧れの大学生活も、1限から10限、月曜日から金曜日までぎっちりと詰まるハードな子ども学科の授業の多さに、このままやっていけるだろうかと、最初はとても不安になりました。実際、はじめは慣れることができず、帰ってからもお風呂の中で寝てしまいそうになるほど、疲れが日に日にたまっていきました。しかし、次の日も次の日も、学校に行けば学科の友達の笑顔があり、「一人じゃないんだ」と思い、頑張ることができました。3年間で171単位取得できたのは、間違いなく、一緒に励ましあえるすばらしい学科の仲間のお陰です。
 また、私は楠光寮で4年間を過ごしましたが、同室であった先輩や後輩、また他学部の友達との寮生活も大切な宝物となっています。留学生の友人も、夏休みに私の出身である関西まで遊びに来てくれて、案内でき嬉しかったです。寮には多くの寮則があり、実際、門限は22時なので、友人とご飯に行っても、寮生は21時には(長崎市中心街の)浜の町から戻らなければならないなど窮屈に感じることもありましたが、しかし門限があったためにさまざまな危険から守られていたと思いますし、寮母の皆様には本当にお世話になりました。
 子ども学科では2週間の保育所実習、施設実習はじめ、3週間の教育実習、病院実習など実習が多くあり、さまざまな子どもたちと出会う中で、何度もその小さな身体の中に光っている「いのち」のすばらしさを感じました。
 狭い視野にとらわれず、子ども、また子どもを取り巻く環境を様々な方面から学ぶことができたので、本当に幸せでした。
先生方、学科の友人はじめ活水に関わる皆様、家族、郷里の友人、またボランティアで関わっている方々、数え切れないほどの多くの方の、支えと励まし、祈りによってここまでくることができました。神様がこのような出会いを与えてくださったことを本当に感謝しています。
 これからも大学での学びを基礎とし、いろいろなことに挑戦していきたいと思います。

日下 愛(子ども学科 4年)

 
2010 秋季号

-朝の礼拝から1 -

「ハーモニー」

コリントの信徒への手紙T 12章21〜26節

 宗教センターは聖歌隊の活動をサポートしています。学生さんと一緒に歌ったり、活動をするのは楽しいひと時です。
聖歌隊は年に一度後期の始まる前に合宿をします。数年前でしたか、螢雪会にむけて新しい曲の練習をしていました。なかなか思うようにいきませんでしたが、何回も何回も繰り返す間にやっと音がひとつになる、3つのパートがひとつに聞こえて、あまりにも響きがよくて鳥肌が立つような、「ハーモニーとはこういうことか」と体で感じる体験をしました。
そのときに指導された先生から、「相手の音をよく聞いて他のパートをよく聞いて」と、何回も言われたことを思い出しました。 自分が歌うことが精一杯で、ついつい他のパートは無視したりします。自分のことばかりではなかなか調和がとれません。
 合唱で、パート練習はとてもつまらないものです。アルトは同じ音の繰り返しが多かったり、メゾは妙な音が出てきます、半音上がったり、下がったり、微妙な音に悩まされます。ソプラノは調子に乗りすぎて、今ひとつです。しかしこの3つの音がうまく重なり合うと歌っていてとても快い気分になります。メゾの微妙な音がとても良く、アルトの単調な動きは重なり合うと、いい響きなのです。それぞれの持ち味がお互いに響きあって3つの音が倍にも3倍にもなります。いまさらながら感動です。もちろん自分の音も大切なのです。十分に自分の音の確認し自分の音を大切にしなくてはなりません。
これは人間関係にも言えるなあと思います。
 人間は一人では生きてゆけないものです。でも生まれてから死ぬまでこの人間関係に悩まされない人はいないかもしれません。人と比べて自分はよかったり、悪かったり、羨ましかったり、優越感を感じたり、けなしたり、差別したり、傷つけあったり、同じ人間なのに、どうしようもないものです。そうかと言って一人では生きていけないものです。
 お互いに聴きあい、調和をとることができれば、響きは倍にも3倍にも広がるように思います。
 個性豊かな一人一人でそれぞれに大事な存在であり、それぞれを尊重しあう。神様は一人一人を大事に大切に思ってくださっていることを改めて思うときに、こんな私でも神様は大切に思ってくだることを確信するとき、しっかり自分の与えられたところで、自信を持って自分のパートを歌えると思います。音の重なりに感動をおぼえながら。

西村 実千代(宗教センター)

-朝の礼拝から2 -

「思い出深い聖書の箇所」

マタイによる福音書 6章25〜34節

 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ6:31〜34)

 私が好きなマタイによる福音書6章25節から34節は、昔から大好きでしたし、非常に思い出深い聖書の箇所です。
マタイによる福音書6章25節から34節は、昔*レーナ・マリアさんというスウェーデンのゴスペルシンガーが長崎に来られた時に、縁がありコンサートに参加させていただくことになりました。その時に、レーナさんが「この箇所は、幼かった頃私が辛かったり、落ち込んでいた時に、母がよく用いて励ましてくれました。また、いつもこの言葉に励まされます。この箇所を読むと、神様は本当に私達を見守ってくださるし、いつも愛してくださることを感じます。だから、皆さんも是非この言葉を聞いたり、思い出したら、神様のことを思い出してくださいね。」とおっしゃっていたことを思い出します。また、それにプラスして、私達を動物や植物よりも価値があるのだと思うと同時に、そういう気持ちを起こしてくださる神様に感謝もしなければならないと思います。
 これからも、この箇所を思い出しながら、主と共に歩みたいですし、どんな時にも神様から愛されていることを忘れずに生きたいと思います。


*レーナ・マリア・ヨハンソン
ゴスペルシンガー。1968年、スウェデーンのイエンシェーピンに生まれ、生まれつき両腕がなく、左足は右足の半分ほどの長さしかない。しかしレーナさんは証しする。「私は一度も自分のハンディキャップのせいで憂鬱になったり、悩んだりしたことはないんです。神様はきっと何か特別の計画があって、私をこのように造られたのだと思います。神様こそ、私に生きる力と喜びを与えてくださること、何処に行っても証したいのです。」

安川 麻仁(英語学科2年)

 
2010 初夏号

-朝の礼拝から1 -

「思い悩むな」

マタイによる福音書 6 章25〜34 節

 今朝の聖書の箇所は、私にとって耳の痛いイエス様の言葉です。私自身、食べることも飲むことも大好きな人間ですが、イエス様はこのようなことで思い悩むな、と言われました。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だがあなた方の天の父は鳥を養ってくださる。」とあります。この箇所をよく考えてみると、もちろん思い悩むことを、鳥はしていないと思いますが、本当に何もしていないのでしょうか。鳥は毎日その日の食料を得るために、一日飛んでいるのではないでしょうか。  このようなことを考えると、人間の生き方も同様なのではないかと思いました。私たちは、よく目標に向かって努力します。それは試験だったり、おいしい物を食べたいと思って行列に並ぶこともします。そして結果として、目標が達成できることもあれば、うまくいかないことも多々あります。人生の中では、どんなに頑張っても努力しても、うまくいかないことがないでしょうか。このような時、私たちはこんなに努力したのに「なぜ」、と考えてしまいます。努力しても結果が出ない場合、神さまはなぜこんなに努力した私たちの願いを聞いていただけないのかと思います。  しかし、神さまは私たちの考えを超えたところで、私たちを見守って下さっています。私たちはその時々のことしか考えませんが、神さまはもっと大きな計画を以って私たちのことを考えて下さっています。  この聖書の箇所は、決して努力を否定している訳ではないのです。鳥も毎日生きようと餌を追い求めるように、私たちも何かの目標に向かって努力することは、よい事だと思います。しかし努力した後は、神さまにすべてを委ねたいと思います。

椎名 雄一郎(音楽学部)

-朝の礼拝から2 -

「本当の平和」

ヨハネによる福音書 14 章27 節

 皆さんは平和でしょうか。その平和はいつまで続くと思いますか。
 私は今年、大学4年を迎えるようになりました。過ぎ去った3年間の大学生活は本当にあっという間でした。その中には楽しいことや辛いことなど色んなことがありました。
 これからさせていただくお話はその3年間で自分が経験したお話です。
 2ヶ月前のことでした。他の学科も一緒だと思いますが、生活デザイン学科は4年生になると非常に忙しくなります。それは卒業作品という大きな課題があるからです。就職する時にも、とても重要なので心を込めたいと思いました。その卒業作品のアイデアを考えるため、マクドナルドに通いました。睡眠もとらずに考える日々でしたが、いくら考えても良いアイデアはなかなか浮ばず、何も書けず、そのまま家に戻る日が何日も続きました。とても不安でした。友達や先生方にも相談してみましたが、不安感はなかなか取れませんでした。その時、神さまは私にこの御言葉を与えてくださいました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」この御言葉を読んだ瞬間、今まであった不安感は嘘のように消えました。神さまは天地創造をされた方です。ですから誰よりも私たちの苦しみや悩みを分かってくださっています。ただ、その悩みや苦しみをすべて神さまに委ねればよかったのです。
 私は、この経験を通して人を含めて世の中の物が与えてくれる平安は限りがあり、神さまには限りがないということを知りました。聖書にある「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。」という御言葉のとおりでした。今も色んなことによって辛い状況でありますが、いつも傍にいて下さり、私のことを誰よりも分かってくださる神さまのお陰で、心は本当の平和を感じています。
 皆さんはどうでしょうか。本当の平和でしょうか。
もし平和でなければ、平和の手段を神さまに伺ってみるのはいかがでしょうか?本当の平和が訪れてくるはずです。

羅 恩恀(生活デザイン学科4年)

 
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